南ヶ丘・自治会と地域の歴史

2020年10月

南ヶ丘自治会員

田村栄三 著

 

 

プロローグ

 この小冊子のポイントは第三部、「自治会の歴史」です。自治会の役員として、その40年の歴史を俯瞰し、先人の事績に学び、そこから現在の会運営に役立つ新たなアイディアを導きだそうとしました。その成果をすべて任期中に実施に移すことは困難でしたが、次の世代がこれを参考にして、また新たな歴史を作ってくれれば望外の喜びです。

 

 第四部では、先人が検討した記録はないが、将来においていずれ実施に移すべきと想定されるプロジェクトについて触れました。行政の支持・支援を要し、長期的視野をもって検討する必要がある案件です。

 

 会員は千葉県出身が多いようですが、全国各地からも数多く集まっています。この多様な人口構成の中で、逆井住民、南ヶ丘住民としての求心力、あるいは共通のアイデンティティを生み出すもののひとつは、我々が現在住んでいる「地域の歴史」を知ることです。先人がどのようにして地域の政治・経済・文化を形成していったか、第一部でご覧ください。

 

第一部 地域の歴史

カバーする地域は逆井、増尾、藤心地区とする。その理由は1)逆井だけでは小さすぎること、2)増尾が歴史的にこの地域の中心であったこと、3)江戸時代、この3村はともに同じ為政者の支配下にあったこと、明治時代になっても3村ともに土村の中核として歩み、また土小学校の登校区域であったことにより、一体感が強い。

 

1 原始時代

宮根遺跡は増尾字宮根、廣幡神社の裏、標高20mの台地にある。縄文時代の竪穴住居が2軒、弥生時代の住居が3軒のほか弥生式の土器が出土している。縄文時代は狩猟、漁労、採取に頼っていたので、森と大津川が近いこの地は格好な場所だったと思われる。弥生時代は稲作も行っていたので、川と平地に近いことも利点であったに違いない。なお、大津川は古くから鎌ケ谷市の栗野入道池を源流として手賀沼に注ぐ。

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図1 宮根遺跡

関東地方には数百の、同様の遺跡がある。温暖な気候と川に恵まれた当地は古代人にも住みやすかったと思われる。隣人との交友はどうだったろう。*1

 

2 大化の改新の頃

 卑弥呼前方後円墳聖徳太子の時代では、我らが地方は歴史に登場しない。

 これに続く大化の改新(645年)は画期的な改革であった。即ち、1)皇族及び中央・地方の貴族・豪族らのすべての領地・部民を廃止して、全国土・全人民をあげて天皇の公地・公民とした。2)そのための国司、郡司などの行政機構を整備した。3)農民に一定の土地を与え、税制を整備した(班田収授制)。・・・この改革に伴い、この地方の民でも地方豪族に属していたものの地位が一変したわけだから大騒ぎになったに違いない。が、

 当地方で関連する大きな事象は見られない。

 

 もう一つ大きな変革として公民男子は兵役の義務を負わされた。九州・大宰府の防人(さきもり)は主として東国人があてられた。その理由は1)東国人の武勇に対する高い評価2)防人には九州地方制圧の目的もあり、地元の反乱軍と接触のない遠く離れた東国人を持ってくる必要があったこと、である。

 ある年の統計によると、東国人防人総数1082人のうち下総国人は270人で、東国人中最多である。何人かは我らの先輩も含まれていたかもしれない。彼らは今の大阪までは徒歩、自弁。それから大宰府までは公の船で公費負担。下総から大阪までの片道数百キロを徒歩で往復するのは肉体的、経済的に大変な負担であったに違いない。万葉集には防人の苦労を詠んだものが多い。

 また、8~9世紀にかけて東北地方・蝦夷の反乱があり、坂上田村麻呂等に従って下総等から軍士が徴発されている。*2

 

3 平安・鎌倉時代・・・荘園制の発展

 大化の改新により人民は平等に、公田を一生占有することができるようになったが、一方で山林・原野については人民の自由な用益権が認められ、これが事実上の私的所有を発生させる契機となる。8世紀になると、貴族・高官・大寺社は逃亡農民などを受け入れ、鎌・鍬などの鉄製農具を使わせて、林野等の開墾により土地を増やすようになった。いわゆる荘園である。さらに、9世紀・平安時代では貴族・大寺院らの荘園領主は政府高官等に働きかけて、土地に税金をかけられない特権を獲得し、また地方で税を取ろうとする国司・郡司等からの干渉から守ってもらった(その代償として政府高官らに年貢等を払った)。また、荘園と国司等との抗争の中から武力で解決する武士階級があらわれてきた。

 

 当地方の武士階級で頭角を現してきたのは千葉氏、相馬氏である。彼らは桓武天皇の血筋をひく平氏の一族であって、平将門をも祖先に持つ。千葉氏は現在の千葉市付近に本拠を移して、平氏から千葉氏を名乗るようになった。相馬氏は千葉氏から分かれた。

 

 相馬氏は12世紀、増尾、藤心を含む下総国相馬郡の荘園を伊勢神宮に寄進し、その地に・御厨(みくりや)を造った。御厨とは、もともと天皇や神への献納品を収納しておく倉を言ったが、後にそれらの倉がある土地そのものを呼ぶようになった。(こうした土地を持っていることは地方の豪族にとって大変名誉なことであった)相馬氏は田畑の産物のほか雉、鮭などを献納する条件で伊勢神宮を本所領家(保護者)としている。これにより、相馬家は伊勢神宮の政治的保護を得たわけで、今後の荘園獲得にも有利に働いたであろう。また、自らも荘園の下司職(地元の管理責任者)になった。そして相馬氏は徐々に当地における実質的な支配権を領有・拡大し、1180年頃(平安末期)には相馬御厨の支配権を確立したと言われる。

 このような背景の中で、近隣の文化遺産を見てみよう。

  • 幸谷(こうや)城館跡

     柏市史(原始、古代、中世版)では相馬氏の居館跡としている。増尾4丁目付近の丘の上(現在造成中の宅地の奥)にある。土塁や堀に囲まれた東西約100m、南北約60mの方形の主郭を中心とする。当時の城は他の武士団との争いなどから土地と農民を守る自衛的な防衛施設であればよく大規模である必要はなかった。15世紀築城~16世紀まで存続した。

     今はコンクリートで固めた水路でしかないが、当時は船の通る河川(当時は大津川の支流だったか)沿いに築かれ、物見台を使って船の出入りを監視していたとされる。・・・これで思い出すのは、ライン川の両側や中洲の城は、運行する船から税金・通行料の類を徴収したと聞いた。洋の東西を問わず、同じようなことを考えるものだ。特に当時、当地方は陸上道路網が未発達だったこともあろう。

     御厨から伊勢神宮への貢納物は水運を利用し、江戸湾の港(今の横浜、品川など)から海上輸送されるのが一般的で、海運業者もすでに存在していた。

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    図 2 幸谷城
  • 萬福寺 阿弥陀如来

     増尾4丁目の万福寺内にある。萬福寺については後述する。

     この阿弥陀如来像(注)は平安時代の後期の造立、柏市域で現存最古の仏像と推定されている。もともと、相馬家の所有であったが、幸谷城が廃城になった跡いろんな経緯をたどって、現在、萬福寺阿弥陀堂(1625年、江戸時代創建)に収められている。*3
  • 萬福寺 妙見堂と妙見菩薩

     妙見菩薩は相馬氏の守護神であった。もともと増尾本郷(現・美里ゴルフセンター近辺)の妙見堂(幸谷城館の北東(=鬼門)にあった)に祀られていたが、今は萬福寺阿弥陀堂内に安置されている。

     妙見堂がかってあったあたりに最近「妙見堂跡」の石碑等が建設された。*4*5
  • 少林寺臨済宗)1558年創設

     増尾3丁目にある。明治15年までは、相馬氏の氏神妙見堂と同じ増尾本郷にあった。この寺には、戦国期に奥州相馬氏から招来したという十一面観音像と1336年の相馬重胤の墓があり、相馬氏との結びつきを感じさせる。
  • 神明社

     本文のカバー外の旧沼南町塚崎にある。とはいえ、藤心とは道を挟んだ山のうえにある。伊勢神宮遷宮等の経費調達、寄進をはかり、その神威と権威を宣伝するため、別宮ともいうべき神明社を各地に創建した。相馬御厨近辺に設置したのは当然であろう(社殿は伊勢神宮に向けて建っている)。鎌倉時代の末期1303~1308年ごろ創建。表参道上部の鳥居は1757年、藤心地方の領主本多侯の寄進による。(沼南町史)
  • 増尾十郎

     「義経記」に増尾十郎なる人物が登場する。相馬御厨・増尾出身の武士として間違いなかろう。武士が出身地の地名を苗字とすることは当時ごく普通であった(武蔵国大里郡熊谷郷を本拠とした熊谷直実など)。

ここで、当地方のその他の神社仏閣について、上に述べた宗寿寺、少林寺神明社を除き、江戸時代創建のものを含め簡記する。

  • 萬福寺真言宗寛永15年(1638)創建。増尾4丁目。江戸時代に寺小屋が開かれ、読み・書き・算盤を教えた。これが土小学校に受け継がれている。
  • 観音寺:真言宗。逆井にある。文禄4年(1595)創建。創建時は今の逆井運動場にあったが、火災に遭って約50年後に現在地に移転した。江戸時代には寺子屋があった。これが明治になって逆井学校となった。

  • 妙蓮寺:日蓮宗。慶長7年(1602)の創建。増尾6丁目

  • 慈本寺:曹洞宗。1480年創建。在藤心。

  • 廣幡八幡宮:1193年(鎌倉時代)、現・柏市近郊一帯の総鎮守府(守護神)として創建された。増尾字宮根にある。

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    図 3 廣幡八幡宮

     

  • 八幡神社鎌倉時代の創建とみられる。八幡宮は源氏の氏神鎌倉時代には彼らがこの地に強い影響力を持っていたはずだから、八幡神社があってもおかしくない。宗寿寺とともに、藤心における鎌倉時代の痕跡をとどめる建造物である。

以上、平安、鎌倉時代の荘園経済における当地方(増尾、藤心)の姿を、文書を通して見てきたが逆井の名前はまだ見えてこない。

 

4 戦国・乱世の時代

 応仁の乱(1467)などで国が乱れ、下剋上の世となり、足利将軍の権威は地に落ちた。土一揆が盛んになり、百姓・民衆は公家・寺社等の荘園に対し、年貢の減免、未納分の借金取り消し(徳政)を要求した。この間に、北条、上杉、今川、徳川、織田等の戦国大名が死活の領地争いの中から成長してきた。

 相馬御厨においても、相馬家の担当者のなかには伊勢神宮の高官にわたりをつけ、荘園の権益の一部を着服するものも出てきた。神宮側は在地の有力者を介さなければ年貢の収益すら期待できなくなってきた。*6 *7

 時代が戦国時代へと進展するにつれ、相馬氏も地域の抗争に巻き込まれていき、北条氏(鎌倉時代の執権・北条氏ではなく、北条早雲の系統)などへの従属性を強めていく。相馬氏の動員兵力は数百人~1200人程度とみられており、やむを得ない。相馬氏の本家の千葉氏は15世紀半ば、古河公方と上杉氏の対立に巻き込まれて勢力を失い、1590年、北 条氏とともに滅びた。下総の相馬氏は何とか歴代継承したが、徳川の天下統一にはなすすべもなかった。とはいえ、子孫は江戸初期に旗本5000石に取り立てられた。

 応仁の乱の頃、高城(たかぎ)氏が松戸、我孫子方面で急速に勢力を伸ばしてきた。当時の新興勢力・北条氏に従い、その重要拠点となったが、北条氏が豊臣氏に敗れる前に豊臣軍に降伏した。高城氏は相馬氏の系統をひく可能性があるとされている。小金城は現・松戸市にあり、東西500m、南北600mの非常に大きな城で、戦国期の千葉氏の居城に匹敵した。現・柏市にある、増尾城址、松ヶ崎城址、戸張城址などはその配置・建築計画からみて、小金城址の周辺を防備する砦的な性格を持っていたとされる。

 先述のとおり、幸谷城は水上交通を監視する役割を持っていたが、小金城も利根川手賀沼印旛沼の各城(佐倉城や臼井城等)との連絡・補給の便宜上、水上交通のネットワークを活用していたようだ。

  • 増尾城址
     増尾城址増尾字本郷にある。大津川の支流沿い、標高約20mの高台にある。東西約130m、南北45~100m。16世紀の戦国時代後半の築城といい、東葛飾郡史によれば、小金城主・高城氏の家臣・平川若狭守が城主であった。先述のとおり、砦的な、小規模の軍事施設である。
     この近辺(増尾、藤心)はかつて相馬御厨であったが、高城氏の勢力が強まってきた戦国時代には誰の所有地であったろうか。土村史によると、「増尾は往古小金領に属す」と、明確に相馬氏から高城氏の領地に代わったと書いてある。*8

5 織田、豊臣政権から江戸時代

 戦国時代以降、荘園制は衰退してゆく。秀吉は太閤検地により、支配下の領地の田畑を測量し、各百姓の収穫高を決め、また中間の搾取者を排除し、現実の耕作者が直接に領主に納めるようにした。これらの自営小農民の集落の区域を定め、村民の中から村役人を選定し、大名の地方行政官がこれを管轄する。百姓は土地を捨てることを禁じられ、職業の自由を奪われた。

 徳川政権は検地を一層徹底し、百姓への管理をさらに厳しくする。政権の高官・本多正信は「百姓は財の余らぬように、不足なきように治めること」と書いている。「生かさぬよう、殺さぬよう」というわけだ。また、五人組の制度により、年貢の未納、逃亡その他の犯罪にも全組員が連帯責任を負わされ、近隣互いに監視しあうことを義務づけた。*9

 全国の土地として大名領地のほか、幕府直轄地(天領)、旗本の領地(知行地)などがあった。天領、知行地は江戸周辺に置かれるケースが多かった。これはいざというとき江戸城の安全と兵糧を確保するため、また米価を安定させるため(米価が上がると近辺からすぐ米を運ばせれば、需給の関係で米価は下がる)であった。*10

 江戸時代、我らが先輩の土地(逆井、増尾、藤心)はそのほかを含めて南相馬領と呼ばれていた。この地域は大部分天領、旗本知行地または本多藩領であった(外様大名はいなかった)。なお、本多侯は旗本であったり、1万石以上の大名であったりした。本多氏自身は江戸にいて現地に代官を置いた。

 本多氏の代官屋敷(陣屋)は藤心字大宮戸にあった(現・南部老人福祉センターの近く)。今、柏市教育委員会の案内板が設置されている。また、「逆井」の名前が初めて文書に出てきた。柏市民俗資料によると、逆井村成立の経緯は不明とのこと。*11 *12 *13

 まず、我らの村はどの程度の規模(村高)であったか。柏市史により、江戸時代前期と後期で見てみよう

村高   元禄15年(1702)   天保5年(1834)   人口(1741)
増尾    316石    627石    433人
藤心村    258石    380石    不明
逆井村    204石    382石    不明

 

増尾村がこの地域で最も大きかったことが分かる。天保時代、租税は五公五民として314石を村民の取り分と推定できる。一人、年間、1石を消費するとなると433石が必要なわけで、米だけでは食べていけなかったろう。当時、村人は畑作、鰻、どじょう取り等に勤しんだと書かれている。

  また、開墾などにより、元禄から天保時代にかけてどの村も村高(村全体の石高)を大きく増加させている。(領主から年貢は村全体にかけられ、村が連帯責任を負うとされた。)

  次いで、天保5年(1834年)の石高を同じく柏市史により村別、領主別にみてみよう。柏地域はすべて天領+田中藩領(注)または田中藩単独の領地であった。

 

   幕府直轄(天領

          田中藩

          その他

            計

増尾

            90石

           526石

            10石

           626石

藤心村

            64石

           316石

 

           380石

逆井村

           105石

           276石

 

           381石

*14

村民にとっては、幕府直轄地はもちろん、田中藩ももと上級旗本の知行地であり、天領または準天領にいるという意識が強く、自分たちは「御天領の百姓」だと言ってなかなか気位が高かったと言われる。 *15 *16 *17

 

 当時の衣食住はどうだったか。以下は一般史書籍の孫引きである。 

 

<衣> 

 14,5世紀に木綿が輸入され,従来からの麻、絹とともに、20世紀に人絹、化学繊維が出るまでの、日本人の衣料は全部出そろった。江戸時代一般に、百姓は木綿を着た。晴れ着など特別なときには絹を着ることもあった。

 

<食>

 15,6世紀、豆腐、味噌、醤油など、今日にいたるまで日本人の常用する必須の食品の大抵のものができるようになった。砂糖と油の食用も起こった。酒はもっと早くから商品になっていたが、室町時代に一層、商品化が進んだ。

 江戸時代、百姓は麦と米を混ぜた麦飯が常食だが、下層の百姓の場合、正月3が日でも米を口にすることができず、麦、粟、稗などの雑穀を食べた。いくらかの米が手元にあっても、米はまず年貢として納めなければならなかったのである。食事は日が短い季節には一日3回で、日が長い季節には4回を通例とした。また、盆・正月・祭礼などには餅・蕎麦を食べ、酒(濁酒)を飲むこともあった。

 

<住>

 玄関、床の間、畳、天井に板をはり、ふすまや障子で部屋をくぎる書院造りの基本が15、6世紀に出そろった。江戸時代には屋根は草葺(麦わら、かやなど)が一般的。下層の場合は床には竹の簀の子か筵(むしろ)を敷いたものもあった。

 

 江戸時代中期以降になると、幕府は開墾による田畑の開発や商品作物の栽培を奨励し始めた。また、増尾村などでも、農業の余暇に酒、味噌、駄菓子、飯屋、質屋等の副業を始める者も出てきており、貨幣経済に組み込まれる動きもみられるようになった。一方で、

農民の中には病気などにより年貢を納められず、自己の田畑を売却し土地を捨て都市へ逃げる者も出てきた。これらの結果、農村では富農と貧農の階級分化が表れはじめた。また、天明天保の飢饉により貧農は一層窮地に陥った。

 災害については、飢饉のほか、現・柏市北部では利根川の氾濫による水害を何回も被っている。当地方では先述のとおり、台地にあること、大きな河川がないことのため、水害の記録は殆んどない。逆井村では、1771年、1785年ともに旱魃の被害を被り、年貢の減免を受けている。とはいえ、当地方も水の害が皆無だったわけではない。1791年には、大雨が3日間続き、更に大嵐が2回あって不作になった。

 当地方では、天領、準天領であることもあってか、大きな一揆、打ちこわしの記録は認められない。また、1620年の逆井村の検地、1664年の藤心村の検地では、財産上それほど大きな階級分化は認められない。しかし、江戸時代後期になると様変わりしてくる。

逆井村の百姓の所有する土地面積をみると、50名のうち3町以上の者が3名、1反未満の者が10名と貧富の格差が大きくなっている。下総国の人口は享保6年(1721)を100とすると、飢饉のあった天保5年(1834)には74.1に減少した。*18

 

牧(まき)=野馬の放牧場

 牧は8世紀頃から下総国に存在していたと推定されている。長い期間にわたって逃亡馬とか放たれた傷病馬、老齢馬などが下総台地の奥地に逃れ生息繁殖し、自然発生的に牧ができたと考えられている。江戸時代、幕府はこの未使用地を利用して軍用馬や農耕馬の育成のため、下総の広大な地域(野田、松戸、柏、鎌ヶ谷習志野、佐倉、更には成田空港までのびる広大な原野)に直轄牧を開いた。野馬は数千頭いたという。

 幕府は馬の所要数を確保するために、増殖を図り管理した。このため、時折「野馬追い」をして馬を一定の場所に取り込めた。牧の周囲には野馬除け土手、野馬堀を設け、野馬の里入りを防いだ。家康ほかの将軍はここで戦争の演習を兼ねて鹿狩(ししがり)や鷹狩りを盛んに行った。鷹狩は飼いならした鷹を使って、主に鳥を獲ることだった。

 柏市域には中野牧があった。今、豊四季、五香、六実、十余二など数字が付いている地名は、ほとんどこの牧を明治になって開拓地に転換(後述)した後の地名である。現・南逆井は五香に隣接しており、松戸市史等の地図から見る限り、逆井駅の南部(逆井、新逆井、南逆井、南増尾)の一部は牧であったかもしれない。一方、今の逆井駅の東側の一部、薬局のあたりは牧が入り込んでいたが、南ヶ丘団地は牧ではなかったと推定する。*19  *20  *21 *22 *23

 

交通

家康は将軍に就任すると、東海道ほかの五街道を幕府の道と定め、宿場での本陣・旅籠屋の設置、人馬の提供などを周辺の百姓等に義務付けた。水戸街道は松戸、小金、我孫子を経て水戸に達する道である。水戸藩主には参勤交代の義務はなかったが、その他各藩の諸藩士の通行が多かった。

宿場は小金のあと我孫子までない。現・柏市の中心部の千代田村は当時、全くの寒村で、旅籠が2~3軒ある程度だった。そのため、宿場町には指定されなかったので村人の負担が少なかった面もあった。水戸街道の柏部分の大半は牧の中を通っていたため、道を踏み間違えないよう並木を植えた。*24 *25 *26

現・柏市北部では利根川で荷揚げした(布施河岸など)魚などを陸上輸送で江戸川に運び、再び水運で江戸に送るのが一般的であった。(明治になって利根川と江戸川を結ぶ運河が建設された。)当地方では江戸への運輸は最寄りの江戸川の船着き場まで陸送し、そこから江戸へ船で運ぶケースが多かった。

 

6 明治、大正、昭和前半

 徳川幕府は農村の疲弊もあったが、それ以上にペリーの来航に伴う、鎖国か開国かで大騒ぎになり、結局倒れた。明治以降は新たな国造り、日清・日露の戦争、太平洋戦争の敗戦、戦後の経済成長と疾風怒濤の時代だった。

 明治維新により、幕府領、田中藩領がなくなった。明治22年、政府が町村制を施行した時、逆井村、増尾村、藤心村等11の村が合併し、土村となった。土の名前は十一を縦にしたもので、土に対する愛着を込めて命名された。大正11年の総戸数は増尾159、藤心62、逆井77戸、土村合計568戸、大正7年の土村人口は男1955人、女1987人、計3942人であった。職業別では87%が農業だった。民有地の面積は次表のとおり。

     増尾    藤心    逆井   土村合計
   75町    28町    33町    251町
   58町    25町    50町    229町
宅地    15町     5町      8町    53町
山林原野    176町    86町    189町    829町
   325町    145町    282町   1364町
戸数    159戸    62戸    77戸    568戸
1戸あたり面積    284坪    242坪    312坪    280坪

*27

 

どの村も山林原野の占める割合が多い、豊かな自然の豊かな村だった。

 逆井村全体で77戸、今残っている農家のような広い家屋、300坪前後の宅地、田んぼ・畑、そして3分の2を占める山林原野、その間を小さな川が流れ、夏の夜には蛍が舞い、狢が童をからかった。大正11年というと1922年。1世紀前の逆井や増尾、藤心はある意味で桃源郷だったと思われる。

 

 村役場は大正13年に現・増尾4丁目(増尾近隣センターの近く)に木造2階建てを築造した(今は増尾ふるさと会館になっている)。職員は名誉職を含め7名。この土村が昭和29年、柏町、田中村、富勢村と合併して柏市として発足した。その時柏市の人口は43,000人(今は沼南町と合併して40万人)であった。

 

逆井村・地区の人口の推移
  • 大正11年(1922):  戸数77   人口は推計により500人程度
  • 昭和54年3月(1979):戸数3、723、人口13、135人
  • 令和2年7月(2020): 戸数9,780、人口22,210人

   急激な増加である。

 

小学校

 学制発布に伴い、明治5年、増尾村は萬福寺を仮校舎として増尾学校を創設した(当初は教師1人、生徒48人)。現・柏市域で最も早い設立である。これは先述のとおり、萬福寺に江戸時代からの寺子屋があり、スムーズな移行が可能だったからではないか。明治25年には逆井校を合併し、増尾、逆井、藤心等の児童を収容した。明治32年高等科併置の許可を受け、増尾・幸谷(現・土小学校敷地)に校舎を新築した。この時の生徒数は尋常科4学年合計で137名、高等科3学年で合計58名であった。昭和2年、校名を土尋常・高等小学校と改称した。その後、柏市の人口増加とともに、土小を親学校として、藤心小、増尾西小など5つの学校が創設されていった。以上により、土小は柏地区で、いや、寺小屋時代を含めれば日本でも最も古い小学校のひとつであることが分かる。南ヶ丘団地の小学生は大部分土小に通っているはずで、誇りに思ってほしい。

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図 4 土小学校

*28

なお、大正13年に県立東葛飾中学校が千代田村(現・柏駅近辺)に開校し、当地方からの進学者もあった。

 

人々の風俗・習慣

 大正11年刊行の土村史によると、

<衣服>

 住民の平常家屋にありては綿服の筒袖に狭き巻帯を着す。外出等においては絹服を着用する。男子は外出には稀に洋服を用いる。

<飲食>

 一般の常食は麦飯にして、中流の家庭にありては米飯のみを食するもの少なしとせず。牛、豚等の肉食の風は年とともに加わるが、多くは野菜類を食し、稀に魚肉を食す。

<住居>

 家屋は大抵木造の草葺平屋建てにして、二階建て、瓦葺、亜鉛葺等の家は少なし。上流の家庭においては用材豊富なる高楼を造る物多し。

  ・・・江戸時代より少し進んだかなと思う。

<市(いち)>

  柏市(いち)、塚崎市(いち)が定期的に開かれ、その日は村中が仕事を休み、祭り見物と市見物に出かけて行った。

 

  • 関東大震災
     「災害は過去に学べ」という。関東大震災についてはどの史書も取り上げているがまず土村史から引用しよう。
    「大正12年9月1日関東地方に起こりし烈震は・・・その被害は激甚にして惨憺を極めたり。この区域における・・・死者9万9千人余なりしも、本村においてはこの死亡者のうちに男一人ありしほか、他に罹災者更になし」
     柏市史では「土村日誌」を引用している。「当日午前11時頃大震動2回、それより引き続き3日まで30回以上の震動ありて人心戦々恐々たり。夜間は戸外に宿泊するもの多かりし。東京市は7,8分どおり3日間にわたりて焼失す。人員の死者1万5千人と算せらる。本村においては死者及び潰倒家屋、焼失家屋等無かりき。」
     また、柏市史の他の章では、「関東大震災は市域を通る鉄道にも損害を与えたが、それはあまり甚大なものではなかった。」常磐線貨物列車4両の脱線、橋梁等の損害があったが、軍の鐡道連隊によって復旧した。 
     「東葛飾の歴史地理」によると、東葛飾郡(市川、船橋を含む)の死者、行方不明者は638名、全半焼、全半壊による罹災世帯数は3、387であった。  
     「千葉県の歴史」では「…被害は東京市、神奈川県、千葉県南部が最もひどく、全壊12万戸、全焼45万戸、死者・行方不明者14万人におよんだ。千葉県では内房地方、特に房総半島の突端部分(館山市付近)の被害が激しかった。」
  • 東日本大震災
    以上でお分かりのとおり、関東大震災では当地方の被害は極めて軽微だった。ついで、2011年3月11日に発生した東日本大震災での被害はどうだったろうか。全体では死者行方不明者17,500人、全半壊建物67,000戸とされている。柏市では死者1名、全壊1棟、半壊16棟、一部破損4721棟であった。当地域の状況については第三部・自治会の歴史の項で述べる。

 

鉄道の敷設

柏市および逆井地方の発展は鉄道の敷設によるところが大きい。ある村史に「柏駅の如きは見るも苦しき寒村なりしに・・・」と書かれているほどだったが。

 

明治29年常磐線全線が開通し、柏駅が開業した。明治44年野田村の醤油業者らの努力により、野田線が開通し柏駅に接続、更に大正12年柏―船橋線が開通し、近辺では高柳、増尾の各駅が開業した。これにより、柏は鉄道が十字をなす交通の要衝となった。*29  *30  *31

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図5 逆井駅無人停留所

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図6 逆井駅 ‐ 有人駅

*32 *33 *34

 

鉄道は昭和になって、次々と電化、増便、複線化等により便利になった。さらに、大震災で都心から引っ越してくる人もあり、この地方の沿線住民が増大した。

柏駅の乗客数の増加とともに柏市はその後も発展を遂げ、沼南町と合併して今や人口40万人と、地方の県庁所在地を超えるほどになった。今後とも行政、商業、文化等に関する、4つの鉄道沿線の中核都市として発展してほしいと願っている。

 

付録 “牧”のその後

 

 以下は逆井地区には直接関係がないが、“牧”のその後を理解することは柏市の現在を理解するうえで有益と思うので付記する。

 

 明治政府は牧を廃止することした。牧は鎌ケ谷、柏方面の小金牧と佐倉方面の佐倉牧があり、総計45,000町歩におよぶ広大なものだった。一方、徳川氏の没落に伴い、御家人等が窮迫しその救済の必要が出てきて、明治政府はこの牧を窮民や牧近隣の農民に開墾させ、その土地の所有権は一定の条件で開墾者に与えることとした。明治初年、全部で6,500人程度が開拓地に入植した。その後、開墾地の所有権をめぐり、介在した商社などと争いがあったが、最終的には太平洋戦争後の農地改革により、この膨大な土地はほとんどが近隣の農民の所有に帰した。(旧御家人等の移住者はほとんど2~3代後には開墾をあきらめ離村していた。)現・柏市では、豊四季、十余二の地域である。

 

 次いで、昭和2年この地(豊四季台)の吉田家の敷地の一部(10万坪・・・吉田家や商社等も広大な土地を取得していた)に競馬場とゴルフ場が建設された。昭和13年には軍の柏飛行場が十余二に完成。陸軍航空教育隊等も移転してきた。昭和18年には日立製作所等が豊四季等に軍需工場を建設した。戦後、軍需工場が民生機器工場に転換した後、昭和25年、朝鮮戦争が勃発すると、米軍が通信所用地として開拓農地5000坪を接収、その他の土地56万坪と併せて昭和54年の返還まで使用した。そしてこれらの土地が今、柏の葉公園千葉大、東大、がんセンター等として活用されている(ピッタリ当てはまっているかは不詳)。

牧も多くの変遷を見てきたが、ノーベル賞受賞教授が凱旋した今が最も幸せだろう。

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図7 開拓前の牧-映画のロケシーン(休憩中?)

*35 *36

 

第二部 柏市都市開発公社による南ヶ丘団地の造成

 ・都市計画法による開発許可    1972年7月7日

 ・工事検査済証の発行       1975年7月3日

 ・建ぺい率            敷地面積の60%

 ・容積率             同上の 150%

 ・価格(場所により異なる)    55千円~57千円/m2程度(注2参照)

 ・宅地入居第1号         1976年2月

*37  *38

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図8 造成前の南が丘

 

第三部 南ヶ丘自治会の歴史

自治会は当初「増尾南ヶ丘自治会」として発足した。以下に諸先輩の事績と現時点における対応策案について対比する。

 

(1)自治会発足                             

1978年6月 自治会発足準備会設立

1979.1  設立総会開催(於千葉興業銀行逆井支店)、増尾南ヶ丘自治会発足 

          会員世帯数:115

          初代(二代)会長:佐藤秀哉氏

1979.1  第1回役員会 (於佐藤会長宅)

1979.1  市役所市民課へ自治会設立届

1982.4  増尾南ヶ丘自治会規約を施行

 

(2)現時点での文書保存状況

・「増尾南ヶ丘自治会ニュース」(1989年1月から「ふれあい南が丘だより」に名称変更)

の100号記念特集号に1978~1989版あり。但し、自治会にはなく、柏市立(中

央)図書館に2部あり

その後は「南ヶ丘だより」は不規則、多くは散逸

・議案書:1996以降現在まで全数あり。但し、2012年版は不完全 

     1979~1995は廃棄処分したと思われる 

・その他の文書ファイル(事務局長管理のものが多い)も不規則、多くは散逸

 

<対応策案>

・文書管理/保存規定の制定

 永久保存文書:議案書、総会議事録、役員会議事録、ふれあい南が丘だより

  x年保存:会計帳票類

  x年保存:防災・環境 

 総会マター

 

 なお、2019→2020事務局長引継ぎ書には重要文書の保管についての記述あり

・小和室内ファイル・キャビネットの扉に永久保存文書名を貼付

 

(3)1978.12 の分譲区画数275区画

  (うち、協力地主 24、その他 32、残地 1)

 

<2020の区画> 274(含非会員)、空地21、空き家11 計306区画

              (空地、空き家数は環境担当調査による)  

 

(4)1979.8 第1回夏祭り(盆踊り)開催

 自治会発足当初は新年会、忘年会、餅つき大会、ソフトボール、ゲートボール、囲碁大会、連合(藤心・・)運動会、子供会、シルバークラブ・・・多彩な行事を実施した。当時の役員・会員は若く、エネルギッシュだった

・1982年の小学一年生 21名

 

<現在は>

・2020年の小学一年生  5名

 

(5)1979.6 集会所(現在の倉庫)完成

     役員会、囲碁クラブ等に使用

 

1983.1 南ヶ丘会館完成 

   工費 1400万円(うち、市補助金600万円) その他備品等50万円 

    小寺工務店施工

   建築面積 136.96m2(41坪) 

   公共特殊建築物として免税

  1983年1か月間の会館利用件数 45件 延べ530名  

 

<現在は>

・2020年7月の利用件数   36件(コロナで利用減)

・建築後37年、建て替えのための積立金等の措置が必要か

 

(6)1983.5 会館庭の植樹ボランティアを募集

<現在は> 

確かに会館に限らず、道路沿いを含め植樹について要検討

せめて、増尾へ抜ける「狢台通り」沿いだけでも

 

(7)ブロックの統合問題

・1979.3  「3ブロックの会員数が他に比べ極端に多く、集金等の手間が多い」、との理由から3A,3Bブロックに分割された

・2013.1  3Bブロックから「世帯数が少ないので役員の順番が早く(5~6年に

1回位)回ってくる、3Bからの役付き役員推薦は2年に1回にしてほしいのという苦

情・要望が述べられた

 

<現在は>

・3Aブロックは3Bとの合併を拒否

・2016 役員会で、6ブロックにまとめる案。(実際に総会で提案されたかは不明)

 

   ブロック合併案      会員数(当時・・・除共益費会員)

    1+2           18+21=39

    3A+5          18+17=35

    3B+4          10+20=30

     6                  32

    7+9           17+25=42

    8+10          25+17=42

                    計  220

  (この案によれば、新ブロックは各々毎年1名の役付き役員を選出する。会員側からすれば、30~40年に1回順番が回ってくる頻度、ブロック委員を含めれば15~20年に1回)

   

・規約細則(第5条「・・・ブロックは11とする」、・・「区域は別表のとおり」)の改正は総会マター

・なお、役員はルーティンワークをやっている限り多忙とは思えないが・・・(夏祭りの業務については不詳)

 

(8)「ふれあい南が丘だより」で会館利用の団体名、利用曜日、利用回数を紹介していた

<これからは>

上記にプラスして、自治会員の親睦を促進すべく、会の入会勧誘・紹介記事を会館利用者が順番に執筆(400字程度以内)するようにしたい(第1回は自彊術担当)

 

(9)会員世帯数          

1981:191、 1986:235、 1989:244 

2020:246(共益費会員を含む)

 

(10)1989.1 自治会発足10周年行事を実施 

<2029.1> 50周年を迎える。その際は当時の記録を要チェック

 

(11)1997 南ヶ丘自治会規約を施行

     増尾南ヶ丘自治会規約(前述・・1982施行)を廃止

     新名称:南ヶ丘自治会(規約第2条)

     理由不明

 

(12)2008 団地入口に「投棄自粛、不審者注意」の立て札をたてた

<これからは>

  現在の掲示板は設置場所悪く(通行人少なし)、老朽化。変更の要あり。2008年の場所が最適                 

  (掲示板設置の補助金制度あり)

  これからは、市や関連団体の配布資料よりも、自治会自体の広報資料を中心にすべき

 

(13)東日本大震災 2011・3・11

  • 先述(第一部 p19)のとおり、柏市の被害は比較的軽微であった。その後の、市の通知・指導文書類では主として放射線対策、除染工事がメイン・テーマであった
  • 直後の、2011.4.10発行の議案書では「3月 大地震の直後、被害状況を把握のため、自治会役員による巡回パトロールを2回実施した」が、その結果については触れず
  • 役員会議事録では「瓦が落ちて、大谷石が倒れているところもあった」
  • 防災担当役員の記憶では「柏市防災無線が混乱した」「沼の埋立て地上の住宅で塀の一部毀損等があったが比較的軽微」
  • 「ふれあい南が丘だより(3月20日号)」では地震について触れず。地震特集号を発行する案もあったようだが、残存せず、当時の事務局長は「発行した記憶はない」

 南ヶ丘地区の被害は軽微であったとしても、今後はそれなりに後世に向けてもう少し詳しく記録を残すことが望まれる。先述のとおり、“災害は過去に学べ”、“歴史は繰り返す”という。

 

(14)2009 市の側溝整備事業が始まり、自治会では専門委員会を設立して対応することとしたが、同委員会は最近解散した。解散の経緯については、特に言及した記録は見当たらなかった。市では20年間を要する事業としているが。

  •  2020年春の紙上総会において最も質問の多かったこのテーマ(工事順の公平性、透明性)について、これまで自治会、専門委は回答していない。→自治会不信、退会の原因になっていないか。
    過去の記録では、自治会、専門委が工事の地域的順番について審議・説明した記録は発見できなかった(工事の進捗状況の説明はあり)。

 

 <今後の対策>

  • 側溝整備委員会が解散したのであれば、今後は役員会が工事順位の決定について主体的になるべき(抽選など)
  • 「南ヶ丘だより」で今後の工事の順番についての考え方を周知・説明するべき
  • 市の順番付けでは、「ⅰ)破損個所 ⅱ)道幅等による事故多発道路を優先する」とのことだが、その他の道路の工事順については言及なし、と理解している 

 

(15)自治会からの退会阻止について

 =古くして新しいテーマ。ほとんど常に“問題先送り”の歴史=

 

自治会等における加入状況

  ・柏市  2008  77.1%  2014 72.2%

  ・千葉市 1992  86  %  2012 71  %

  ・市原市 1992  74.8%  2013 61.9%

     (いずれも低下傾向にある)

  ・国民生活選好度調査 2011   加入率は7割

 

  ・南ヶ丘自治会           2020 88・7%

                    (共益費会員も加入者に含む)

 

役員会等でなされた提案と問題点
  • 自治会」から「町会」へ名称変更せよ(町会のほうが公的なイメージ、入会強制力を持つ、という意味か)
    自治会の名称変更は規約変更を要す(規約変更は、市の事務局の検討→自治会総会審議→市長承認)
    # 全国294千団体のうち、「自治会」は42%、「町内会」23%
  • 会費を値下げする
    # 値上げ・値下げ案とも、その前提として、中長期財務計画を策定すべき
  •  専門委員会を設けて審議する
    # 専門委員の応募は0だった→お流れ
  • 「ふれあい南が丘だより」を退会者にも配布する 
    ・各種行事(老年者向けを含む)の活性化を図る
    #  賛成です(但し、今年はコロナ問題あり)
  • 2016年(藤井敬三会長)、「自治会再加入のお誘い」(別紙)を非会員(52名)あて発出(回収38名)。結果、
    2名   会員として再加入
    25名  共益費負担(役員就任拒否できる、正会員ではない「共益費会員」として年6000円負担)に同意 
    11名  再入会拒否
    14名  未回答
    (27/52=51.9%)

    # 自治会40年の歴史で、本件に関し唯一の成功例。
    # ここで初めて、「共益費」なる用語が当自治会に導入された。これは2005年の最高裁判決「そこに入居している限り共益費を支払うべき・・・」に起因する。以下に最高裁判決主文の要旨を紹介する。
    • 本件は県営団地の「入居者」と「入居者を会員とする自治会」(以下、「自治会」という)のあらそいである。
    • 争点は:入居者は自治会を退会した時点以降、自治会費、共益費を支払う義務ありや否や
    • 現行契約では、入居者は自治会に対し、
      ⅰ)共益費(団地内の共用施設を維持するための費用、即ち街路灯、階段等の電気料金、エレベーターの保守料金、害虫駆除費等2700円/月・・・南が丘自治会では、防犯灯電気料金、共済費等に相当する)と、
      ⅱ)自治会費(自治会を運営し、その活動を遂行するために必要な経費300円/月・・・(南が丘自治会では、ⅰ)以外の一切の経費に相当する)を支払う義務あり、と。

     

    ここで注意すべきは、「共益費」の定義である。

     ・2016年の当自治会はその定義を明確にしていないが、“共益費非会員に、会員と同額の6000円を支払え”としているのは、最高裁のいう「共益費」(前記ⅰ)及び自治会費(前記ⅱ)全額を示すものと解しうる

       (執筆者も7月の役員会ではその定義に従っていた)

     ・最高裁判決では共益費とは前記ⅰ)のみである

     

     これから我々はこの判決の定義に従うこととする

最高裁は、

  ・入居者は自治会を退会することができる。退会以降は自治会費を支払う必要はない

  ・入居者は団地に入居している限り(自治会を退会しても)自治会に対し共益費を支払えと判決した

 

  # 本判決趣旨は南ヶ丘自治会と地域内住民との関係に類推適用できる、と判断する。従い、当自治会は非会員に対し、共益費相当分を支払うよう要請できる判例上の根拠を得た(加賀町会は共益費を徴収している、との情報あり(2013.10.9 第7回役員会議事録)

 

  # 問題点1

 判決では自治会費と共益費とを明確に区分し、共益費のみを支払う非会員をつくることができるようにした。しかし、先述のとおり、

2016年の南ヶ丘自治会ではこれを区分せず、「共益費非会員といえども全額支払うこと、但し、役員就任義務を免除する」ことにした。つまり、両者の定義は全く異なるわけである。

よって、今後、当自治会では判決の趣旨を体し、共益費の定義を明確にし、かつ、非会員に納得してもらう必要がある。

 

    問題点2

上記のとおり、二つの共益費の定義が混在している現在、今後の会員区分にこの用語を使用するのは混乱を招くおそれがあり、注意を要する。

 

  # 問題点1,2の解決策案

    区域内住民を最高裁判決趣旨に沿って次の区分に分ける

    ⅰ)A会員・・・会費全額を支払う正規会員

    ⅱ)B会員・・・会費全額を支払う会員、但し役員就任義務なし(旧共益費非会員)

    ⅲ)C非会員・・新定義の共益費のみを支払う非会員→金額は7月役員会で提案し

た2000円より高額か(例:「火の用心」巡回、ごみ掃除は住民全部を利する。会館、防災用品の非常時使用も非会員利用可)        

    ⅳ)D非会員・・自治会費、共益費ともに支払わない非会員(公開する要なし) 

 

    総会マター

    総会後、非会員に文書発送(文書発送まで現役員が担当する用意あり)

   役員会で文案審議すべし

 

(16)自治会費の銀行振り込み・・・会計担当にて検討

 

(17)共済費

ⅰ)   2005年            2006年

    90,650円          279,200円

 理由:2005年までは諸募金等、約20万円を親睦費に計上していたが、総会で、共

    済費で処理するよう指摘があったため

 

ⅱ)共同募金等の要請額はあくまで目安であり、2006年頃の役員会で減額していた、

  あるいは、非会員分を減額して対処した

ⅲ)総会である出席者から、「いきなり募金額の話が出てくるが、「南ヶ丘だより」で事前

に通知すべき」という意見があった  

 

<対応案>

 ⅰ)共済費はデリケートな費用であり、総会提出前に会計、会長において慎重に検討すべ

  き

 ⅱ)南ヶ丘だよりで事前に報告すべし

 

(18)ブロックプランターの撤去について

 歩道上にあり、歩行者の通行上支障がある。市に相談すべきとの意見があった

 

<対応策と留意点>

 過去に市、自治会において、緑化運動の一環としてブロックプランターの設置を推奨したことはなかったか・・・環境担当にて要検討

 

第四部 自治会の長期的課題

(1)空地、空き家対策

先述のとおり、現在南ヶ丘地区に空地21件、空き家11件が存在する(防災・環境担当調査)。空地、空き家は地域の人気度を下げ、地価低下につながる。当初の団地入居者は年齢構成が似ており、40年を経た今、一斉に老齢化にむかっている。今、我々が求めているのは、バランスの取れた年齢構成である。「子供の遊び声がし、壮年が働きに出、老人が憩う」団地である。南ヶ丘の空地、空き家に若い世代を導入したい。(空家等対策の推進に関する特別措置法(2014年 参照))

 今、近辺で林を切り、畑をつぶして多くの住宅団地を造成している。・・・40年前造成の団地にはいっぱい空き家・空地があるというのに。全国の空き家率は14.3%(2013年 総務省調査)あるというのに。日本の人口は減少しつつあるというのに。環境問題を無視して・・・。

 今、住宅新築を検討している若い層に、行政による補助金を付けて、既存団地の空地に新築したり、空き家を建て替えたりするよう誘導できないだろうか。古い団地をバランスの取れた人口構成にすることは行政も指向するところのはず。

 新しい造成地の建設を制限することは、私権の制限であり、困難を伴う(我々も新造成地に入居したことだし)。しかし、環境・防災問題の重視など、世の中は変化している。また、変化しなければならない。

 地域防災の専門家はいう。「全国で浸水危険性のある地域が宅地化されています。

・・・1995年からの20年で、浸水想定区域の人口は150万人増えて3540万人になりました。これ以上郊外の開発を進める時ではない。減っていく人口を奪い合い、危ない土地をさらに開発していく愚はやめるべきでしょう。」(2020・9・4 朝日新聞

 

(2)建築基準について

我々は造成地の建築基準に従って建築し、住居した。最近、狭小敷地に建築を許可されたケースがある。当時の建築基準は無効になったのか。住環境に影響する建築基準は簡単に変更すべきでないと思うが。自治会として調査する必要がある。

 

(3)一人暮らし対策

現在、団地内に一人暮らしの世帯が約40ある。民生委員もいるが、自治会としても何か役に立つことを検討すべき

  1. 孤独死対策
    孤独死を防ぐために、今、電気通信を通じて、一人暮らしの老人の動静をチェックするシステムがいくつかある(セコム、NTTレゾナント、など)。チェックするのは業者の監視台や親戚など。行政の補助金を得るなどしてこれらを導入することを検討するべき
  2. 一人暮らし対策で先進的取り組みの常盤平団地自治会を調査すべき
  3. 今年はコロナ問題で難しいが、老人慰安会などを、福祉協議会等とも連携して積極的に開催すべき

 

参考文献

 柏市史 3巻(原始、古代、中世編)、(近世編)、(近代編)、 柏のむかし、歴史アルバムかしわ、天領(村上直)、江戸幕府の代官(村上直)、土村史沼南町史(一)、千葉県の歴史、 楽しい東葛地名辞典、 東葛飾の歴史地理、日本の歴史 上中下(井上清)、千葉県柏市民俗資料、  逆井・藤心・沼南の歴史とカタクリの花を訪ねて

 

自治会の 議案書、 総会議事録、 役員会議事録、 事務局長記録ファイル、増尾南ヶ丘自治会ニュース(100号記念特集)、 ふれあい南が丘だより

 

                                      

 

                           

 

今後、作成・実施すべき事項のまとめ(第3部関連)

  1. 文書管理規約案(事務局) 
  2. ブロック統合案(事務局、ブロックの要望による)
  3. 南ヶ丘だよりでの会館利用者案内(事務局、利用者)
  4. 自治会案内板の移設(事務局。要地権者の合意が前提)
  5. 側溝整備工事の地域別順番について、自治会の基本的考え方を示す(事務局・役員会)
  6. 共済費支払いの基本的考え方(会長、計理)
  7. 会員区分の明確化、非会員へのレター発出(事務局)

 

*1:縄文時代は紀元前3~2世紀頃までの数千年間続いたと言われる。家は地面を6~7m方形又は円形に掘り下げ、その中に柱を立て、四方から草木の屋根をふいた竪穴式である。

弥生式は縄文時代の終わりごろ、南朝鮮から北九州の海岸地帯へわたってきた文化である。彼らは縄文土器とは系統の違う、それよりも高い技術の土器を持ち、また水田農業と金属器を伴っていた。この文化は紀元後1世紀には関東地方まで普及してきたという。縄文人が新人類に追い出されたのではなく、新人類が縄文人に吸収された。

*2:大化の改新の時代、福島県中部までが天皇制国家の支配下にあった。また、当時の全国の人口は5~600万人と推定されている。

*3:阿弥陀如来は人々を極楽浄土に導く存在である。如来は悟りを開いた人の意味。浄土信仰で数多くの阿弥陀像が作られたが、京都・宇治の平等院鳳凰堂のものが有名。

*4:妙見菩薩とは国土を守り、災難を除去し、敵を退けまたは人の寿命を延ばす福徳ある尊像。菩薩は悟りを求めて修行する人。王子だったころの釈迦がモデルとされる。

*5:下総国一帯は、古くから馬の産地として名高く、特に相馬の郡は有名だった。武士や農民にとって、馬は貴重な財産であり、馬を飼う集団は守護神として北極星を崇拝したが、これが妙見信仰である。今でも、東葛飾や福島県相馬市(下総・相馬氏の一族が進出)付近には妙見社が多い。

*6:1334年、藤心その他は相馬氏の何某からその娘・土用御前に譲られ、彼女は岩松氏に嫁したので、その土地は岩松氏の所領となった。

*7:1394年、伊勢神宮から地元の守護代あてに、御厨の収益が届けられないという訴えがあった。守護代は相馬家の御厨担当者に支払えと命じたが、神宮側が軽視されていることが分かる。

*8:土村史によると、増尾城址はある相馬一族がその母の遺領を受け継ぎ、「ここに居城せしものならん」としている。考えてみると、高城氏はもともと千葉氏を祖先に持っており、相馬氏は千葉氏から分かれた系統だから、増尾城主は高城氏でも相馬氏でも大差ない、という理解も成り立つ。

*9:徳川幕府はそのほか、大名の取りつぶし、所替え、参勤交代、キリスト教の禁教、鎖国令など政権を守るための厳しい政策をとった。

*10:江戸時代には「天領」という言葉はなかった。明治になって「天皇の領地」をつづめたもの

*11:逆井は牧(野馬の放牧場=後述)に接していたので、生産性の高い田畑の村としての発足は遅かったかもしれない(開墾でも出遅れた=後述)。

*12:逆井という名前の由来:かつて、ある新聞にこの地域は、“井戸を逆さにするほど水がよく出たから”と載っていた。しかし、東葛地名辞典では逆のことが書いてある。この地区で深井戸を掘っても水が出ない。「逆」は「水が湧かないこと」。増尾から逆井にかけての台地は柏市で最も標高が高く、逆井駅東に27・2mの三角点がある。台地は地形上から水脈が深く、井戸掘り技術が未熟な時代は難儀した、と。要は、地名の由来はよく分からないということ。

*13:増尾にあるニッカウイスキー柏工場の総務部長によれば、工場の井戸水は豊富で良質とのこと。

*14:ここで田中藩について説明する。最初に柏地方に来た本多正重は1万石の知行であったので大名・下総相馬藩主である(幕府は江戸近くに城地を設けることを喜ばなかったので正重はそこに城は作らず、代官所を置き領地の差配をした)。2代目は8千石に降格になったので旗本になった。4代目正永になって、上野・沼田藩主4万石に昇進し再び大名に、その後、6代目正矩は駿河・田中藩主4万石に移封になった。本多家は沼田、田中藩時代も当地方を飛び地として領有した。

つまり、当地方は一部が天領であったり、本多侯の大名領地であったり、旗本知行地であったり、沼田・田中藩の飛び地であったりした。(具体的にどの田畑が誰の所有であったかの資料はない。)その代官所・陣屋は初代・正重の時から幕末まで藤心字大宮戸にあった。なお、土地を細かく入り組み支配するのは幕府の安全政策による(強者を作るな、と)。

*15:司馬遼太郎 「坂の上の雲」四:「徳川幕府が自己の領地である天領に対してほどこした政治は・・・概括的にいえばむしろ良質な政治の態度を維持した。」

*16:当時の良政とは、年貢が少ないということだったから、城持ち大名に比べて経費の安い天領、旗本の知行地は年貢を低く抑えることができて当然だ。「天領」(村上直著)によると、天領の税率は江戸時代初め四公六民、享保時代になって五公五民だった。一方、大名領では六公四民も普通だったという。天領・旗本知行地には現地に代官を置いた。代官の居宅を陣屋、執務場所を役所と呼んだ。江戸にも役所があり、人数は両者を併せて7~8名から18~9名が普通だった。代官の俸禄は50~60石程度。元禄以降、代官は任地に赴任せず、江戸で執務するケースが多くなったそうだ。

 なお、本多家は先述のとおり藤心に陣屋を置いた。陣屋の坪数は664坪。

飢饉の際の救出米を保管する倉庫、宿泊施設などもあった。現地(藤心近辺)の手代も使った模様。

明治になって陣屋は撤去され、その門は付近の名主・石井家(後に名戸ヶ谷の法林寺に)と逆井の観音寺に移築された。

*17:明治になり、本多氏は駿河から安房に転封することとなったが、本多氏の当地旧領民たちが領主の転封反対運動を起こした。善政のノスタルジアから起こしたものである。(勿論これは新政府に受け入れられなかったが)

*18:逆井村でも藤心代官によって、牧(野馬の放牧場=後述)の新田開発がすすめられたが、開墾地に野馬が入り成果が得られなかったという。逆井村は52町歩の広い開墾地であったが、農業生産の成果はわずかであった(東葛地名辞典)。

*19:鹿狩りの獲物つまり牧に棲んでいた動物は何だったか。それは猪、鹿、兎、狐、狸、狢(むじな)等である。狢とは「タヌキまたはアナグマの俗称、妖怪視されることが多い・・・(日本大百科全書)」とのこと。ところで、南ヶ丘団地の我が家の住所は分譲時、「柏市逆井字狢台xx番地」であった。鄙びた感じがよいではないか。少なくとも(からかいの?)話題にはなる。

*20:増尾南ヶ丘自治会ニュース」(1983年)の記事を紹介する。

「南が丘団地を購入した時は木戸尻狢台という地名でした。この辺、昔は大変山深い森林におおわれていました。そこで、部落を守るため、部落の入り口に木戸を建ててあったそうな。それで木戸の近くに住んでいた人を木戸前の田吾作さんとか、奥の方に住んでいる人を木戸尻の権平さんと呼んでいたのが地名になったそうです。

それから、この辺は狸のことを狢と言っていましたが、狢がいっぱいの台地を狢台、隣の東武団地は昔、狐がいっぱいいたそうで狐峠という地名もありました。

*21:牧は周辺の百姓にとって迷惑の種だった。まず、牧の中の鹿などの動物の捕獲は禁止、秣(まぐさ)確保のため草刈も禁止、馬や獲物の動物たちが周辺の農地を荒らす、そのための土手を築造・修理する作業や、野馬追い・鹿狩りの勢子に駆り出されるから。  

一方で、勇壮な鹿狩りは娯楽をエンジョイする機会の少ない百姓にとって、一村一郷あげてのリクレーションで、百姓たちは弁当持参で見物に行った。

吉宗は1725年、幕府の高官諸大名、旗本等3千人余を随行させて現・五香付近で鹿狩りを行った。逆井南部はそのすぐ近くなので我らの先輩諸氏も駆り出され、あるいは見物に行ったかもしれない。

*22:日本馬は西洋馬、アラブ馬に比べて小型なので、日露戦争では陸軍は日本馬を使わず、西洋産の軍馬を採用した。

*23:野馬追いというと、福島県相馬市のものが有名だが、もともとこの祭りは、下総国相馬郡一帯で武士たちによる一種の軍事訓練として行われていた行事を祭化したものである。奥州相馬氏は下総の相馬氏から分かれた一族である。

*24:逆井村に旅籠はなかった

*25:今の逆井駅から陣屋方面に向かう広い道は「陣屋道」といった。今、その道に名前はないが是非復活してほしい(「陣屋通り」など) 

 駅方面から陣屋通りを東へ、つまり神明社方向に向かうと今村歯科医院の手前で左に曲がる狭い車道がある。その曲がり角が狐峠(きつねっぴょう)である。

よく見ると三叉路角地に道標がある。「藤心村、明和9年(1772)、右なりた、きおろし、左 ゆわい、わしのや」と書いてあるのだそうだ。

ところで、なんでここが峠なのか。東、北から林の中を歩いて登ってくると峠という感じがしたのかもしれない。(今のドライバーは上り、下りに鈍感になっているのだろう。)

狭い車道は命名すれば「狐峠通り」かな。

*26:近世の関東人の旅の中で最も人気のあったのは伊勢参宮だった。当地方から江戸まではおよそ30km、翌日江戸入り、京都、奈良、大坂、金毘羅、善光寺参りなどして、2~3か月の大旅行であった。

*27:1町は9917m2  1坪は3.3m2

*28:今、土小の校庭に立っている2本の老桜は文字どおり“百年桜”だそうである。

*29:常磐線は当初流山通過の案が有力だったが、当時利根川と江戸川を結ぶ運河が廃れるとして、流山の水運業者などが鉄道通過に反対した。これが両者のその後の発展の運命を決した。

*30:増尾駅の設置に伴い、村は翌年駅構内へ桜50本、また駅から500mほどの道路沿いに250本、計300本の桜を植樹した。現在増尾駅近くに残っている20~30本の桜はその幹の形状からして、後に植え替えられたものと推定する。

*31:逆井駅は昭和6または8年、無人停留所として開設、昭和22年船橋線の電化とともに駅に昇格した。その裏には、地元民の長い間の念願と運動があった。図5無人停留所、図6は有人駅(喜びに沸く人々の後ろに駅舎が見える)。

*32:1985年9月、(1)逆井駅が2階建て橋上駅舎となり、(2)逆井―増尾間が複線化された。当自治会では若干の寄付を行った。

*33:2020年3月、逆井―高柳間が複線化し、急行が通過するようになった。近辺の急行停車駅は高柳。

*34:2014年度の近辺各駅の1日あたり乗降客数は次のとおり。

逆井駅 14、040人

増尾駅 13、083人

高柳駅 12、730人  

無人駅から発足した逆井駅は、もともと有人駅であった近隣の駅に追いつき、追い越した

*35:戦争末期、全国各地に空襲があるようになっても、軍都・柏が本格的に攻撃されることはあまりなかった。市域に対する米軍機による空襲は偶然(主目標からの帰りがけに残った爆弾を処分するためなど)の攻撃であって、米軍の公式記録には柏空襲に関する記録はない。

*36:戦時中、逆井、増尾などに高射砲連隊照空隊が展開していた。夜の空襲に対応するもの。

*37:2016年の会長・藤井氏によると、

  • 1974年から数年の間に7期に分けて入居 
  • 入居形態は抽選方式(千葉県在住者優先、競争倍率は高かった)
  • 入居者の特徴:勤労者が多かった。入居者の年齢が近いという特徴。

    *38:2020年8月の価格 67千円~76千円/m2 (近隣不動産会社での聞き取り・・・場所により開きがあるとのこと)